新・九州探訪 第9回 府内城跡・勢場ヶ原の戦い

あなたの自然になってゆく 長寿の里 あっとよか
  • 長寿の里とは
  • 商品一覧
  • 商品Q&A
  • よか特集
  • ご利用ガイド
  • マイページ

トップページ > よか特集TOP > 新・九州探訪一覧 > 第9回 府内城跡・勢場ヶ原の戦い

よか特集

新・九州探訪 よかとこ魅力、再発見

第9回
九州城郭探訪編
府内城跡・勢場ヶ原の戦い

新・九州探訪の1シリーズとして、九州城郭探訪をお届けします。
九州で日本100名城に選ばれている城を中心に、戦国九州三強(島津、大友、龍造寺)の歴史を時系列に沿って紹介させていただき、シリーズを読み進めると九州の戦国史への理解を深めていただけるよう特集しますのでお楽しみください。

大分市の中心地(市役所横)に位置する府内城跡。立派な石垣の上に現存する人質櫓(ひとじちやぐら)と、その奥に天守台(天守閣の土台となる石垣)が見えます。 市街地には、再現模型を展示しているところもあります。天守の下(北)の櫓が人質櫓です。蔵:府内城を復元する会 現存石垣の上に再現された立派な門。

大分市ぶらりMAP 大分沿岸部のほぼ中央に位置するキリスト教と南蛮文化が花開いた街

大分市紹介

大分県沿岸部のほぼ中央、市域の東西を大分川と大野川が流れる大分市。戦国時代にはキリシタン大名として有名な大友宗麟(おおともそうりん)が、全国に先立って積極的に西洋文化を取り入れ、キリスト教布教の中心地にもなりました。市内の観光名所として、大分元町石仏や高瀬石仏、また、別府市との境にある高崎山自然動物園はサル山として有名で、隣に「うみたまご水族館」もあります。今回は、新・九州探訪の城郭探訪シリーズとして日本100名城の94番とされている府内城跡を 訪れ、かつて九州の守護大名として活躍した大友氏の歴史を追います。

府内城跡・大友氏館跡

府内城天守台(天守閣の土台となる石垣)からの展望。大分市街が良く見渡せます。(パノラマ撮影)

「新・九州探訪」になって初めての大分訪問です。

この日は大分市教育委員会のご協力で、数々の史跡をご案内いただくことになりました。

JR大分駅に着くと、まず大友宗麟の像が目につきます。
大友宗麟は、鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後(大分)を統治した大名・大友氏の第21代当主で、当時、全国に先立って西洋文化を積極的に取り入れた殿様だったようです。この他、宣教師ザビエルの銅像があり、床には往時のポルトガルによる世界地図があしらわれ、九州がBUNGO(豊後)と記述されてることからも、ポルトガル人にとって豊後(大分)が九州全体を指す名称だったことを今に伝えます。

府内城は、豊後(大分)を治めていた大友氏が改易(お家取り潰し)となった後1597年に、福原氏が入り築城を開始したお城です。早川氏を経て、竹中重利(竹中半兵衛の従弟)がここを治め、1607年に城を完成させました。その後、日根野氏、稲葉氏と城主が変わり、1658年に松平氏(大給松平氏)が入ってからは明治維新まで長く続きました。
現在は、櫓が2棟、石垣、堀、土塀が現存する他、再建造物として櫓、門、橋があります。4層だったと言われる天守閣は、江戸時代の1743年に火災によって焼失して以来、再建されていません。

次に、お城を出て遊歩公園を経由して、戦国時代にこの地を治めた大友氏が本拠としていた大友氏館跡へと向かいます。遊歩公園には、大分に関係する様々な銅像が並ぶのですが、当時を伝えるものとしては豊後からローマへ派遣された伊東マンショ、青年医師アルメイダが豊後(大分)で初めて西洋外科手術を行った様子を伝える銅像が目につきます。大友氏館跡に着くと、そこは発掘現場でした。政務を行う正殿の跡地を案内いただき、戦国大名の物としては最大級の池を備えた庭園が発掘中で、再現されることも決まっているそうです。

大友氏館跡から南へ進むと万寿寺跡に着きます。ここは京都五山に匹敵する広さを備え、室町時代の芸術家・雪舟もここを訪れ創作活動を行ったとか。現在、発掘調査が進んでいる他、大友氏遺跡体験学習館が建てられており、当時の歴史を学ぶことができます。

最後に上原館跡を訪れました。遺構としては土塁があり、当時の縄張(設計)を説明していただくことができました。使い道としては私的な色が強い場所だったようで、大友宗麟の長男・吉統(よしむね)がここで生まれたことがわかっています。

協力:大分市教育委員会

JR大分駅の大友宗麟像。この他、ザビエル像や、床面に当時の世界地図があしらわれています。 迫力ある天守台の石垣。天守閣そのものは江戸時代の火災によって焼失しています。 再現された廊下橋。本丸から遊興の場でもあった山里丸とをつないでいたそうです。
現存している櫓(やぐら)の一つ。説明では修復の予定があるそうです。櫓とは、物見や攻撃・防御と多用途に使う施設です。 天守台から人質櫓(現存)を望む。人質とは言いますが、特に人質を囲っていたような記録はないそうです。
遊歩公園にある西洋医術発祥記念像。ポルトガル青年医師アルメイダによる外科手術の様子を今に伝えています。 大友氏館跡の発掘現場の様子。戦国時代、ザビエルとの会見などの公的な用件はここで行われていたそうです。 発掘された拝石(おがみいし)。庭園の池を眺める観覧場で、宗麟がここに立って物思いにふけったことと思われます。
万寿寺跡の石碑。土盛りになっていて、それが当時のものであると江戸時代に建てられたこの石碑に刻まれています。 万寿寺跡では発掘が続き、大友氏遺跡体験学習館もあり、大友氏の歴史や発掘状況について学ぶことができます。 上原館跡を偲ばせる当時の土塁。この他、石碑や説明書きがあり、以前は唯一の大友氏館と思われていたそうです。

九州の名門守護・大友氏の興隆 〜勢場ヶ原(せいばがはら)の戦い〜

大友氏は、元は相模(神奈川)の出身ですが、鎌倉時代から少弐氏、島津氏とともに幕府御家人衆として九州へ遣わされて豊後(大分)で勢力を広げました。室町時代に入ってからは中国地方の大内氏の九州進出に対して、筑前(福岡)を追われて肥前(佐賀・長崎)で再興を目指す少弐氏を支援しながら抗争します。

この大友氏は鎌倉時代には鎮西奉行、室町時代には九州探題と、代々幕府から九州の統治を任されてきた名門でした。

戦国期に入ってからも豊前(福岡県北九州)の支配権をめぐって大内氏と戦い続け、1534年には勢場ヶ原の戦いが行われました。

合戦の序盤では、奇襲に成功した大内勢が、大友方の総大将・吉弘氏直(よしひろ うじなお)や副将・寒田親将(そうだ ちかかど)を討ち取るなど勝利を収めます。しかし、大友方の残存兵力は弔い合戦に燃え、戦勝に気が緩んだ大内勢を攻めに攻めまくって散々に打ち破り、大内方の総大将・陶興房(すえ おきふさ)を負傷させたほか、豊前守護・杉重信を討ち取りました。

豊後支配を目指した大内氏にとっては撤退を余儀なくされ、戦略的には大友氏の勝利といえますが、両軍とも主将格をそれぞれ失い、兵の被害もほぼ同等だったことから戦術的には引き分けとされています。

この後、当時の大友氏当主・義鑑(よしあき)が、嫡男・義鎮(よししげ)ではなく、異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと、義鎮派の家臣を粛清しようと計画しましたが、事前に察知され、逆に謀反にあいます。これを「二階崩れの変」と言います。(義鎮自身が仕組んだ政変とも、義鎮に大内氏の血が流れていた為、大内と対決していくうえで義鑑にとって義鎮廃嫡が必要であったとも。)

結果、大友氏は、戸次鑑連(べっき あきつら:立花道雪)ら重臣に擁立された義鎮が21代当主となります。

この義鎮が後にキリシタン大名として有名になる大友宗麟です。

1534年頃の大まかな勢力図。中国地方を制覇した大内氏が九州に勢力を伸ばしてきていました。 県道42号から入った山道わきに、大友軍が本陣を布いた大村山への登山道があります。
登山道は途中まで車で登れますが、通常、急傾斜につきここから徒歩となります。 山頂に鎮座する大友軍総大将・吉弘氏直の墓。右に副将・寒田親将の墓です。 彼方に見えるのは、左が鶴見岳、右は由布岳。勢場ヶ原は少し右側の麓です。
勢場ヶ原古戦場跡に建つ大内方の武将・杉重信の供養碑です。 かつての古戦場は、今では雑木林となっていました。この林の奥が勢場ヶ原です。 大友軍が引き返した地蔵峠。ザビエルも通ったことから「ザビエルの道」とも。
勢場ヶ原の戦い想像図

大村(おおむれ)は大牟礼とも書き、牟礼は古代韓国語で山を意味する。つまり「大きな山」という意味。地元では聖地として崇敬されるほか、展望がいいので古くから戦乱の焦点となっていた。

1534年、中国地方の覇者・大内義隆は、重臣・陶興房(すえ おきふさ)、隆房(たかふさ)父子、杉重信らに兵三千を与え、豊後(大分)突入を命じた。
大内が宇佐へ進出すると、大友もこれを迎え討つために、吉弘氏直に兵二千八百を与えて出陣させ、大村山に本陣を布き、そこへ千の兵を置き、大内軍が侵攻してくると予想される本道の立石峠に田北鑑生、木付親実ら千と、側道の地蔵峠に志手泰久、野原昌久ら八百を配置して待ち構えた。

間者によってこの情報を得た大内軍は、大村山西の麓に至る抜け道があることを突き止め、内通した佐田氏の案内で夜を徹して進軍し勢場ヶ原に陣を布いた。

夜が明けると、大村山の大友軍は思いもよらない位置への大内軍の出現に、「敵は天から降りてきたか!?」と仰天した。
この時、大友軍の広瀬裕則は「立石峠、地蔵峠の味方を呼び戻し、戦力を整えて攻撃するべき」と意見したが、総大将の吉弘氏直は19歳の若さからか「敵が攻めるを待つは卑怯。敵は遠路疲れているので味方は小勢でも必ず勝てる」と勇んで突撃した。

大内軍三千は「鶴翼の陣」という包囲陣形をとって千の大友軍を殲滅。大友軍は序盤こそ大内軍の杉重信を討ち取る勢いを見せたものの、総大将の吉弘氏直が討死したのをはじめ、これを助けようとした広瀬裕則も討死。副将の寒田親将は二人の首を敵に渡すまいと奮戦するが、これも討死して大友軍は総崩れとなった。

これで戦勝に沸いた大内軍だったが、立石峠と地蔵峠の大友軍は弔い合戦に燃え、⑥⑦勢場ヶ原に留まって休息中だった大内軍を襲い、総大将の陶興房は負傷して敗走。大友軍は国東半島に逃げた大内軍を追って、臼野浦(真玉町)でも合戦し、たまりかねた大内軍は高田から海路で周防(山口)へと逃げ帰った。

出典:山香町史談会「第11回山香町歴史まつり 勢場ヶ原合戦」

関連する人物や伝承のコラム

豊州二老と豊後三老

豊州二老とは、大友家の政治面で活躍した吉岡長増(よしおか ながます)と、臼杵鑑速(うすき あきすみ)のことを言い、豊後三老とは、大友家の軍事面で活躍した戸次鑑連(べっき あきつら)、臼杵鑑速、吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)のことを言います。
豊後三老である吉弘鑑理ですが、勢場ヶ原の戦いで総大将となり討死した吉弘氏直は父にあたります。また、鑑理には、子に吉弘鎮信(高橋紹運)、孫に高橋統虎(立花宗茂)、吉弘統幸と、後に勇名を馳せる名将が続きます。
戸次鑑連は立花道雪(たちばな どうせつ)の名で知られる大友家のカリスマともいうべき存在で、かの武田信玄も、その人となりを聞くと書面を送って対面を望んだと言われます。
臼杵鑑速は軍事面だけでなく外交面でもよく活躍したようで、その才能は政治面にも及んだので豊州二老にも名が挙がっています。
もう一人の豊州二老・吉岡長増は、数々の献策で大友宗麟を助け、その智謀は、かの毛利元就と渡り合えるほどでした。
これら重臣に支えられて、大友氏は勢力を拡大し、栄えていきます。

様々な南蛮発祥地の豊後(大分)

南蛮文化で有名な長崎に先立つこと20年、1551年に豊後に南蛮文化が花開きます。
大友宗麟はフランシスコ・ザビエル神父を豊後府内に招き、海外との貿易を積極的に進めました。その結果、府内は海外の珍しい品で溢れ、医学、天文学、音楽、演劇など西洋の文化が花開き、異国の人が行き交う国際色豊かな土地となりました。
日本初の西洋式病院とも言える府内病院は外科・内科・皮膚科を備えた他、育児院を設けて組織的ボランティア活動が営まれたのも日本初と言われています。また、その育児院では牛乳の飲用が行われました。食文化では牛2頭分の牛飯を復活祭に400人に振る舞ったと記録が残り、これが牛丼発祥とも言われます。文化面でも、日本初の聖歌隊が日本人によって組まれたほか、西洋演劇が日本人によって演じられたりもしました(セリフも日本語だったそうです)。
また、カボチャが初めて日本に入ってきたのも大分です。カボチャは大分の一部の地域で「ボウブラ」と言われます。ポルトガル語のアボウブラに由来しているのではないかと考えられているのですが、これは当時、南米が原産でカンボジア経由で流通していたのとは別のルートで、ポルトガル人が持ってきたからということを意味しているのかも知れません。

南蛮南瓜(なんばんかぼちゃ)。ポルトガル人 が宗麟に献上したのが始まりです。

編集後記

宗麟をあしらったタルト。喫茶店にはNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場した宗麟関連の撮影小道具も展示されていました。(南蛮珈琲館)

大分市では、宗麟へのなじみは市民の皆様へはまだまだ浸透しきれていないようで、地元での理解を深めるために様々な取り組みをされていました。
これは、大友氏の後に豊後に入った各氏が、統治を正当化するためや、幕府のキリスト教弾圧政策に対して、大友氏の評価を下げる必要があったからとも考えられているようです。
今ではJR大分駅や府内城に銅像が立ち、大友館、万寿寺、上原館の発掘など、宗麟の評価を見直す動きが進んでいます。

大村山は、山頂に至る車道がチェーンで閉ざされています。杵築市教育委員会のご紹介で地元・山香町史談会に現地を案内いただき、この道が危険なために通常は閉鎖している事情がよくわかりました。それでもポールを倒したり、チェーンの無い側面から四駆車で強引に侵入するなど、心無い行いも後を絶たないそうです。
山道は史談会の方々によって定期的に除草作業が行われ、隔年で歴史祭り(慰霊祭)も行われ、公園として整備されることが議会で決定しているそうです。ちなみに立石峠は今では廃道となり、その痕跡を残していません。

取材にご協力いただいた各位へこの場を借りて御礼申し上げます。

アクセス

大分県 大分市府内城跡、杵築市大村山・勢場ヶ原へのアクセス

JRを利用

  • ・府内城へは大分駅から車で約10分、徒歩約20分
  • ・大村山・勢場ヶ原へは大分駅から中山香駅まで日豊本線で50分。中山香駅から車で約30分。

空港を利用

  • ・千葉県成田空港から国東市大分空港まで約1時間45分
  • ・大阪府伊丹空港から国東市大分空港まで約1時間
  • 府内城跡へは大分空港から大分新川までリムジンバス大分空港線で約1時間
  • 大村山・勢場ヶ原へは車で約1時間

大村山は途中でチェーンによって車が進入できなくなっています。必ず下車して登山するか、杵築市教育委員会経由で山香町史談会へ取り次いでいただき、山頂まで案内していただきましょう。

ご利用ガイド

詳しくはこちらから

WEB会員について

お買い物には「WEB会員登録」(無料)が必要となります。

送料について

同時に2点以上(セット商品含む)、定期コースは送料無料!

お届けについて

お好きな配達時間帯をお選びいただけます。

お支払いについて

後払い代引きなど、様々なお支払い方法が可能です。

  • 会社案内
  • 店舗のご案内
  • ご利用規約
  • 個人情報の取扱について
  • 個人情報保護方針
  • 「特定商取引に関する法律」に基づく表示
  • サイトマップ