新・九州探訪 第10回 鹿児島城跡・岩剱城の戦い

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よか特集

新・九州探訪 よかとこ魅力、再発見

第10回
九州城郭探訪編
鹿児島城跡・岩剱城の戦い

新・九州探訪の1シリーズとして、九州城郭探訪をお届けします。
九州で日本100名城に選ばれている城を中心に、戦国九州三強(島津、大友、龍造寺)の歴史を時系列に沿って紹介させていただき、シリーズを読み進めると九州の戦国史への理解を深めていただけるよう特集しますのでお楽しみください。

鹿児島城を象徴する「切込み接ぎ」という、石を整形して綺麗に積上げる方式の石垣です。石垣の手前側にくびれがあるのが特徴で、これは城の北東で鬼門にあたる為の 封じと言われています。蓮(はす)でいっぱいの内堀は、深さが1mも無いそうです。 黎明館の模型で同じ角度から見てみました。このように櫓(やぐら)や塀があったようです。 城内には大河ドラマで有名になった天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)の像があります。

鹿児島市ぶらりMAP 鹿児島県薩摩半島の北東に位置する新しい日本を生み出した街

鹿児島市紹介

鹿児島県の薩摩半島北東部、桜島を含んだ鹿児島市。
桜島があることから約2万5千年も昔の火山灰が積もってできたシラス台地が多く、戦国時代には島津氏が勢力を張り、ザビエルがキリスト教の布教に日本に初めて上陸した地でもあります。
市内の観光名所として、桜島、江戸時代の藩主別邸跡と庭園である「仙巌園」、西郷隆盛終焉の地として知られる「城山」があります
今回は、新・九州探訪の城郭探訪シリーズとして日本100名城の97番とされている鹿児島城 跡を訪れ、かつて九州の守護大名として活躍した島津氏の歴史を追います。

鹿児島城跡

今回は、長寿の里がある鹿児島のお城を紹介します。

その名も「鹿児島城」と県の名前を冠していますが、1601年に島津忠恒(ただつね)によって築かれた城です。災害や害虫被害などによって、何度も建て替えられていますが、明治6年までは多数の櫓(やぐら)や御殿が残り、その様子が写真にも残っています。ただ、同年に焼失してからは、石垣や堀を 残すのみです。

この日は、鹿児島城跡にある鹿児島県歴史資料センター「黎明館(れいめいかん)」のご案内で、色々な話をうかがうことができました。

鹿児島城を築いた島津忠恒は、全国に勇名を馳せた島津義弘(よしひろ)の三男です。島津氏の前当主であった義久(よしひさ)の養子となって島津家を継ぎ、改名した後の家久(いえひさ)の名前でも知られます。

鹿児島城の裏手には城山という山があり、ここは南北朝時代に上山城という城がありました。元々、山に本丸と二の丸があって、麓にあたる鹿児島城の位置は居館(人が暮らす場所)だったのですが、忠恒が当時の情勢で外敵に備える必要からこのふもとの平地に築城を決めたそうです。

鹿児島城には天守閣が無いのですが、これには「当時の財政が苦しかったため」「徳川幕府に恭順を示す為」「113の外城(とじょう)があるので必要なかった」「義久の、『城をもって城とせず、人をもって城となす』という思想が浸透していた為」など、諸説あるようです。

実父・義弘は、海から近いこの地は外敵からの侵攻を受けやすいと、最後まで築城に反対だったそうです。後の話にはなりますが、幕末の薩英戦争の折、鹿児島城はイギリス軍艦の砲撃を受け、義弘の心配が現実のものとなります。城山は明治時代の西南戦争で薩摩軍が最後の抵抗を試みた場所で、西郷隆盛終焉の地でもあります。

鹿児島城は鶴丸城とも呼ばれるのですが、それは、城山の草牟田方面から見下ろした時に、この城が鶴が羽を広げているように見えたことからだと言われています。

堀は1メールもない浅いもので、現代で車が堀に落ちた時も搭乗者が無事だった程です。これは、鹿児島城の後方に城山があり、防御が充分だったため、 深く掘らなかったのではないかと考えられているそうです。

戦国期の島津氏本拠は内城(うちじょう)で、こちらは現在「大龍(だいりゅう) 小学校」となって、遺構は残っていないようです。

遡って、戦国時代に活躍した島津氏は分家筋にあたり、現在の日置市にある伊作(いざく)の地を本拠としていたそうで、以前紹介した吹上浜から近い場所にあります。

九州新幹線で鹿児島城を目指す時に降りることになる鹿児島中央駅。年中人手が多く賑わいます。 鶴丸城跡の石碑。正式名称は鹿児島城で、水堀、石橋、石垣が現存。後ろに見える山が城山です。 「薩摩は人をもって城となす」の鹿児島城説明書き。武田信玄の「人は城、人は石垣」に通じます。
石橋からの眺め。奥の建物が鹿児島県歴史資料センター「黎明館」で、後方の山が西郷軍最後の拠点「城山」です。 再現模型の正門「御桜門(ごろうもん)」。当時は常時閉ざされた門だったようで、防御に適した虎口(こぐち)という構造です。 虎口の構造。正門をくぐると、四方から鉄砲や弓で攻撃を受けます。「虎口(ここう)を脱する」とは、危機を逃れるの意です。
石垣に残る無数の穴は、明治時代の西南戦争で、政府軍、西郷軍双方の銃弾でついたもの。大砲による大穴も見られます。 黎明館には、古代から現代まで、鹿児島の歴史、民俗、文化が多数展示されています。こちらは大河ドラマ「篤姫」の舞台道具。
日置市にある伊作(いざく)城跡。以前、ご紹介した吹上浜にほど近く、道標で「亀丸城跡」とあるのは本丸の名称です。 伊作城本丸にあたる亀丸城山頂には、説明書きや、島津忠良(ただよし)と、その孫・四兄弟生誕の石碑があります。 伊作城の曲輪(くるわ)の一つ「山之城(やまのじょう)」からの展望。ふもとの吹上町中原が、よく見渡せます。

九州南部の守護・島津氏苦難の時代 〜岩剱城(いわつるぎじょう)の戦い〜

島津氏は、元は惟宗(これむね)氏といい、公家の近衛家が持つ九州の荘園(私有地)の管理者として下り、その荘園の名前だった「島津」を名字として 名乗ったことがはじまりと言われます。

その後、1185年に平家が滅亡すると、平家勢力の強かった九州の地に武 藤(後の少弐)氏、大友氏と共に入り、鎌倉幕府から九州の統治を守護職として任されました。一般的には豊前(福岡東部)、筑前(福岡西部)、肥前(佐賀・長崎)の三前を武藤(少弐)氏が、筑後(福岡南部)、肥後(熊本)、豊 後(大分)の三後を大友氏が、日向(宮崎)、大隅(鹿児島東部)、薩摩(鹿 児島西部)の三奥を島津氏が治めるのが通例となっていました。

ただ、その後、戦国期に至るまで島津氏は内乱などから衰退し、当時勢いのあった伊作(いざく)分家の忠良(ただよし)が、実子・貴久(たかひさ)に本家を継がせて、ここに戦国大名としての島津氏が生まれたと言われています。

本家を継いだ貴久は、島津氏の衰退に伴って日向、大隅、薩摩の有力国 人(土着の武士勢力)たちが自治権を主張して独立していた状態を統一すべく、薩摩をほぼ平定した後に、大隅方面へ進出するために、この入口にあたる姶良(あいら)地域を目指します。

姶良地域は蒲生(かもう)氏が治めていましたが、この島津氏の動きに伴い対決姿勢を強めて守りを固め、先に島津に降った肝付(きもつき)氏の加治木(かじき)城を祁答院(けどういん)氏、入来院(いりきいん)氏、菱刈(ひしかり)氏と連合して攻めます。貴久は、加治木の手前にある蒲生氏の岩剱(いわつるぎ)城を攻めることで、加治木を包囲している敵軍を誘い出す作戦に出ます。

これが1554年の「岩剱城の戦い」で、島津忠良、貴久、義久(よしひさ)の三代が揃った唯一の戦いとも、鉄砲が初めて実戦で使用されたとも言われる戦いで、貴久の子で長男・義久、次男・義弘(よしひろ)、三男・歳久(としひさ)の初陣ともなりました。

この城攻めは城の堅さなどから難航し、一ヶ月近くを費やしましたが、作戦通り援軍に来た蒲生氏の軍勢を破り、岩剱城を落城させ、この後、内通を装った蒲生氏の謀(はかりごと)に窮地に陥ったりはしましたが、大隅への道を開いたのでした。

その後、岩剱城には義弘(よしひろ)が入りますが、険しい山頂にあるこの城が不便だったため、ふもとの平松に城を築き、そこに居館を構えました。この城跡には、現在、重富小学校が立ち、石垣がそのまま利用されています。

1554年頃の大まかな勢力図。中国地方の大内が家臣・陶(すえ)の謀反で滅亡。島津は薩摩をほぼ平定し、大隅の領土回復を目指しました。 姶良ICから県道57号を下ると見えてくる「岩剣城跡登山口入口」の案内です。 ふもとから岩剱城跡を望む。この山は人が登れるのだろうかと不安になる険しい外観です。
岩剱神社から見た岩剱城跡。切り立った崖がところどころ見えますが、先ほどより全体的にはなだらかで登れそうな雰囲気です。 神社脇の林道からしばらく進むと見えてくる岩剱城跡(大手入口)の標柱。早速倒木に道を遮られ、困難な登山が予想されます。
尾根を削って、敵が簡単に進めないようにする「堀切(ほりきり)」という山城独特の構造。左の陣地を占領しても、この掘りに阻まれて右の陣地に容易には進めません。 山頂に近づくにつれ、このように当時の石垣がところどころ姿を見せます。山道の険しい箇所ではロープが張ってあり、それを伝って昇り降りするようになっていました。
岩剱城跡山頂からの眺めです。シラス台地に広がる西姶良の住宅街をはじめ、蒲生氏に攻められていた肝付(きもつき)氏の加治木(かじき)城、蒲生氏の拠点だった帖佐(ちょうさ)館、平山城が一望できます。長寿の里は、ふもとを左に進んだところで、残念ながら岩剱城跡からは見えませんでした。
ふもとの重富小学校手前にある「平松城跡」の標柱。合戦後に岩剱城に入った義弘の居館がここに築かれたそうです。 重富小学校から眺める岩剱城跡。小学校の正門横、平松城現存石垣の前には、岩剱合戦や平松城の説明書きがあります。
岩劔城の戦い想像図

岩剱城があった剱ノ岡(つるぎのおか)は、長寿の里から県道57号を車で南東に5分、惣林岳(そうりんだけ)から北東に伸びた先にあります。

岡とは名がついているものの、平野部に突き出た険しい山です。その名の通り岩の剣のような外観で、城は、その山頂に築かれていました。

島津氏の大隅方面進出の動きに警戒した蒲生(かもう)氏は、岩剱城に、周辺の平松、脇本の住民や、渋谷氏などの守備兵を配 置し、備えました。

1554年9月12日、島津家当主の貴久(たかひさ)は、長男の義久(よしひさ)を総大将に、次男・義弘(よしひろ)、三男・歳久(としひさ)も率いて出陣儀式を行い、当時の拠点・吉田城を出発しました。

島津勢は、貴久が日当平(ひなびら:日当比良とも)に入り、義久は、叔父の尚久、弟の歳久と共に狩集(かりずまり)から日当平に 入り岩剱城に対します。

13日に島津勢は義弘が脇本の民家に放火して挑発。これに乗った蒲生勢と帖佐で戦いとなり、貴久の弟・忠将(ただまさ)が岩嶽で戦い、昼には島津の伊集院忠朗(いじゅういんただあき)が勝鬨(かちどき)をあげるなど、合戦は有利に進み、島津の陣には稲荷火(島津氏の信仰厚かったお稲荷さんの火玉)が出て吉兆(良い兆し)が見られたそうです。

14日には、新留に侵攻。忠将も脇本を攻め鉄砲で攻撃。蒲生方の祁答院(けどういん)勢も鉄砲で応戦。これが合戦で初めて鉄砲が使われた時とも言われます。

夜には星原や帖佐(ちょうさ)に放火して蒲生勢を挑発し、稲荷が唄う吉兆が見られたと言います。その後16日から10月2日まで4 度の合戦におよび、ここでも稲荷火と唄いが見られたと伝わります。

29日には貴久の父・忠良(ただよし)が鹿児島から駆けつけ作戦を練りますが、「この合戦は、兄弟(義久・義弘・歳久)のうち一人討 死しないと城が落ちないだろう」と言い、貴久は父のこの言葉と共に自分が討死する覚悟であると全軍に伝えたため、島津勢の士気は大いに上がります。

10月2日に島津勢の総攻撃が行われ、加治木(かじき)から蒲生勢二千が援軍に来ると、貴久、義久、義弘らは作戦通り平松で迎 撃して激しい戦いとなりますが、蒲生勢は祁答院重経(しげつね)、西俣盛家など有力な武将多数を討たれて敗走します。

貴久が首実検(戦果の確認)を白銀坂で行い、義久が平松から城を明け渡すよう使いを出すと、蒲生側からは「話し合わせてくれ」 と返答があり、義久が軍勢を引いた夜に蒲生勢は城を放棄しました。

それを確認した島津勢が岩剱城に乗り込んで合戦は終結したのです。

参考:於岩剱御合戦之刻之事(鹿児島清水城整備推進協議会訳)

関連する人物や伝承のコラム

島津四兄弟

島津四兄弟とは、島津貴久の長男・義久、次男・義弘、三男・歳久、末弟・家久(いえひさ:義弘の長男・忠恒の改名後とは別人)のことを言います。

この四兄弟は、祖父の忠良(日新斎)より、「大将の器たる義久、武略の義弘、智謀の歳久、軍法の家久」を評されていました。
つまり、長男にはリーダーシップがあり、次男には武勇があり、三男は作戦を立てることに優れ、末弟は軍を統率することに長けているというのです。

祖父の評価通り、四人の兄弟は皆名将で、しかも親兄弟でも争い殺し合う戦国にあって、この兄弟は一致団結していました。

また、島津家には「釣り野伏せ」と「捨て奸(すてがまり)」という独特の戦法があったことも有名で、この後の重要な決戦では大抵いずれかが用いられます。

中世式城郭と近世城郭

お城というと、立派な石垣に白塗りの壁と天守閣...。こんなイメージをお持ちでしょうか。これは近世城郭(きんせいじょうかく)と言って、織豊時代(織田・豊臣の時代)以降に定着した築城方法です。

今回訪れたうち、鹿児島城がそれにあたります。では岩剱城や伊作城はというと、こちらは中世式城郭(ちゅうせいしきじょうかく)と言い、山など天然の地形を利用した城造りのことを指します。

中世式城郭は一見、見栄えが粗末のように見えますが、その実は非常に戦いに向いた実戦的な構造で、堀切や土塁などの有効な防御設備を備えます。特に鹿児島はシラス台地という約2万5千年も昔の火山灰が積もった柔らかい地質だったので、築城に向いていたようです。

戦国末期、戦乱が収束に向かうにつれ、政治に利便性のいい平地に築城地が移り、守るための設備として多数の櫓(やぐら)や堅固な石垣、攻撃方向を限定させるための水掘りなどを備えた近世城郭へ移っていきましたました。

中世式城郭「志布志(しぶし)城」の復元模型。シラスは加工しやすいので、容易に堅固な城が作れたようです。

編集後記

みなさんには既におなじみ「然-しかり-よかせっけん」に使われているシラス。鹿児島では、そのシラスとの付き合いも歴史深いものです。

鹿児島城は簡素な造りながら、華美を慎んだ島津氏の精神を体現したような城でした。その跡地に建つ歴史資料センター「黎明館」には、鹿児島の古代から現代にいたる数々の貴重な展示があり、圧巻でした。

お国自慢かもしれませんが多くの資料からは、幕末に明治維新を起こす原動力となる下地が、昔から脈々と培われてきたのだなと、感じさせられます。

長寿の里がある姶良市の岩剱城は、すぐ近くにあるわりに登ったことが無い山でしたが、見た目よりは登りやすく、重富小学校では姶良市史跡ガイドボランティアによる登山が3年に一度、実施されているそうです。

「然-しかり-よかせっけん」でおなじみの「シラス」に随所で関わるお城めぐりともなり、鹿児島の生活は、シラスとの縁が切れないものだなとあらためて実感しました。

取材にご協力いただいた各位へこの場を借りて御礼申し上げます。

アクセス

鹿児島県鹿児島市「鹿児島城跡」、姶良市「岩剱城跡」へのアクセス

電車を利用

  • ・鹿児島城跡へはJR九州新幹線「鹿児島中央駅」から車で約12分、徒歩約32分
  • ・岩剱城跡へはJR日豊本線「重富駅」から車で約5分、徒歩約15分。

空港を利用

  • ・東京都「羽田空港」から霧島市「鹿児島空港」まで約2時間
  • ・大阪府伊丹空港から霧島市「鹿児島空港」まで約1時間15分
  • 鹿児島城跡へは車なら九州自動車道経由で約34分
  • 岩剱城跡へは車なら九州自動車道経由で約24分

岩剱城跡に登山するときは、帽子、杖、水筒、タオル、着替えのご準備をお勧めします。

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