新・九州探訪 第11回 門司城跡・門司城の戦い

あなたの自然になってゆく 長寿の里 あっとよか
  • 長寿の里とは
  • 商品一覧
  • 商品Q&A
  • よか特集
  • ご利用ガイド
  • マイページ

トップページ > よか特集TOP > 新・九州探訪一覧 > 第11回 門司城跡・門司城の戦い

よか特集

新・九州探訪 よかとこ魅力、再発見

第11回
九州城郭探訪編
門司城跡・門司城の戦い

新・九州探訪の1シリーズとして、九州城郭探訪をお届けします。
九州で日本100名城に選ばれている城を中心に、戦国九州三強(島津、大友、龍造寺)の歴史を時系列に沿って紹介させていただき、シリーズを読み進めると九州の戦国史への理解を深めていただけるよう特集しますのでお楽しみください。

対岸の山口県側から見た門司城跡のある古城山(こじょうさん)。正面に見える山がそれで、手前は関門海峡。山のすぐ隣を関門橋が走っています。戦国時代は陸路より海運のほうが優れた交通・輸送手段だったので、関門海峡の制海権も戦の結果を左右する重要な要素でした。

門司区ぶらりMAP 福岡県企救半島に位置する度々歴史の表舞台となった街

北九州市門司区紹介

福岡県北九州市にある7つの区のうちの1つで、九州最北端である企救(きく)半島の門司区(もじく)。関門海峡を挟んで本州と隣接していて、日本海から瀬戸内海に繋がる海運に恵まれた重要な土地です。関門海峡は昔から、源平合戦(壇ノ浦の戦い)や、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島決闘、幕末の下関戦争など、たびたび歴史の表舞台に出てきました。今回は、新・九州探訪の城郭探訪シリーズとして、この関門海峡の九州側沿岸にある門司城跡を訪れ、ここで行われた大友氏と毛利氏の戦いを追います。

門司城跡

今回は、九州最北端の門司を訪れました。

JR九州の始発駅でもある門司港駅に着くと、駅舎が工事用の防護柵などで囲われていました。
門司港駅は国の重要文化財に指定されていて、この大規模保存修理工事中だった為です。

この日は、門司城を中心とした史跡をめぐりました。

門司港駅から車で10分ほど。地図で「和布刈(めかり)公園」と書いてある海に突き出たところを目指すと、そこが門司城の中腹です。この公園の駐車場から歩いて10分ほどで、門司城本丸だった山頂へと着きました。

門司城は、1185年の源平合戦の折に平知盛によって築かれたとも伝わりますが、実際のところはよくわかっていないようです。

その後、関東・下総(しもうさ)の藤原氏が鎌倉幕府の命によって1244年頃から企救(きく)半島に勢力を伸ばし、門司を本拠として地名をとって門司氏を名乗ります。

戦国時代に入ると、門司城は、大内氏、毛利氏など、その持ち主が変わります。門司氏はこれら大勢力の狭間で分裂し、いずれかに従うこととなります。

戦国時代が終わると、門司城は細川氏の治める小倉城の支城となりますが、1615年に江戸幕府によって一国一城令が出されたことに伴い、廃城となっています。

城の範囲としては、和布刈公園のある古城山(こじょうさん)から、日本とミャンマーの親善交流建てられた「平和パゴダ」を挟んで、筆立山(ふでたてやま)までと、1kmほどに及びます。

山頂から関門橋がよく見える他、中腹には壇ノ浦壁画があり、城の下を関門トンネルが走ります。

協力:中村修身

門司城跡を目指す時に降りることになる門司港駅。現在は保存修理工事中でした。 「門司港レトロ」と呼ばれるクラシックな街。コンビニの色まで街の景観に合わせています。 工事が終わると、このような姿でよみがえりますが、完成は平成30年の予定だそうです。
和布刈公園駐車場のそばにある門司城跡への登山道。奥に見えるような舗装された緩やかな坂が頂上まで続きます。 古城山の山頂に立つ門司城跡の石碑。石碑の奥のベンチからは関門海峡を見下ろすことができます。 山頂付近には、このように細川時代と思われる石垣がわずかに残っています。
中腹の展望台からのパノラマ撮影。右には関門海峡を挟んで本州につながる関門橋が見えます。関門海峡の奥には巌流島も見えます。左端が門司城のあった古城山の稜線。中央の街並みが門司区のレトロ地区を含む市街地となります。
石碑のすぐ隣にある明治期以降の砲台跡。城跡はほぼ壊され、このように近代要塞の跡が色濃く残っています。 展望台にある壇ノ浦の合戦壁画は、その大きさと相まって圧巻です。視線を後ろに移すと、そのまま関門海峡を望めます。

九州探題大友氏と、中国の雄・毛利氏の対立〜門司城(もじじょう)の戦い〜

中国地方に大きな勢力をもった大内氏は、筑前・豊前(福岡東部)を支配しますが、1551年に家臣・陶(すえ)氏の謀反で当主・義隆が討たれます。

謀反を起こした陶氏は、1555年の厳島の戦いで毛利氏に敗れて滅亡し、中国地方は毛利氏の治めるところとなっていきます。

この時、毛利氏と大友氏の間に「陶氏との戦いに大友は武力介入しない代わりに、北部九州の旧・大内領は大友領とする」という密約がかわされ、結果として陶氏に大内家当主として擁立されていた大内義長(大友義鎮[よししげ]の弟)も、抵抗の末に1557年に自害に追い込まれました。

本来であれば、密約通り大友氏が豊前、筑前(福岡西部)の旧大内領を治めるところでしたが、毛利氏は旧大内領をそのまま実効支配するために1558年より九州へと進出し門司城を抑えます。対する大友氏も、門司城が九州の玄関口にあたるため、毛利氏を九州から追い出そうと翌1559年6月に幕府から筑前・豊前の守護職を賜わったこともあり、9月に大挙して門司城を攻めます。

毛利氏は、当主の隆元と弟の小早川隆景や、その父・元就が出陣し、関門海峡を挟んだ対岸の火ノ山城や鍋(なべ:現在の南部)城を支援の城として門司城を守り抜きます。

この門司城の戦いは1561年まで、数度に渡って激しく行われましたが、結局、大友氏は門司城攻略を諦めて引き上げることとなり、1562年に義鎮が出家して宗麟(そうりん)と名を改めたのも、多くの兵を失ったこの敗戦の影響ではないかと言われています。

その後、幕府の調停で大友氏と毛利氏の間に1564年に和平が成立し、九州の旧大内領は大友氏が治める取り決めとなりましたが、実際のところ門司城をはじめ企救郡(きくぐん:北九州市東部)は毛利氏が支配を続けました。

1558年頃の大まかな勢力図。中国地方に強い勢力を持った毛利氏が、九州への足掛かりとして門司城を固持。大友氏と激しく争いました。 唐戸市場のこのあたり(シルエット付近)に、毛利方の海運拠点「鍋城」がありました。
「火ノ山城」の再現想像図(門司城からの眺め)。門司城を守る毛利側の拠点で、この左側にあった海運拠点の「鍋城」と併せて門司城を支えました。
門司城の戦い想像図

1558年6月、毛利氏は、門司城を守っていた大友方の怒留湯主水(ぬるゆもんど)を追い払い、代わって仁保隆慰(にほたかやす)に守らせる。

大友氏は北部九州から毛利氏を追い出すために1559年6月に幕府から筑前・豊前などの守護職を賜わったことを大義名分に9月に毛利氏の守る門司城を攻めたが落ちなかった。

当時、毛利氏は石見(島根)で尼子氏と合戦中だったが、大友軍襲来の報せを聞いた元就は、長男・隆元と三男・小早川隆景を奪還に向かわせる。隆景は、乃美宗勝(のみむねかつ)を小倉と門司の間に上陸させ、宗勝は門司城を囲む大友軍の背後から襲いかかって門司城の救援に成功した。

1561年4月になると、大友氏は門司城奪還に本腰を入れて、一説には1万5千とも言われる大軍で、毛利軍3千が守る門司城を攻めた。それに対し毛利氏は、8月に再び隆元と隆景に、門司城を守るよう命じ、軍勢を動かした。

隆元は防府の大専坊に本陣を構え、隆景が門司救援に向かった。門司城が大友の大軍に囲まれているのを見て取った隆景は、堀立氏などを門司城に入れて城の士気を高めた。また、児玉就方の水軍に命じ大友軍の後方を襲撃させた。

大友軍はなおも攻勢を崩さず10月2日には再び門司城攻撃に動くが、毛利軍には村上水軍が加わり、就方の安芸水軍と協力して大友軍の後方を襲撃し、またも戦果をあげた。

それでも大友軍は諦めず、10月10日に総攻撃に出る。対する毛利軍は児玉就方、乃美宗勝がそれぞれ水軍を率いて大友軍の背後を襲撃。この日の明神尾や、10月26日の甲宗八幡宮(こうそうはちまんぐう:八幡表の会戦)、大里の戦いで大友氏を破った。

ついに大友氏が門司城諦めて撤退を始めたのは11月5日の夜のことだった。

参考:「歴代鎮西要略」「陰徳太平記」ほか

火ノ山城から門司城(関門橋の先)を見ると地勢がよくわかります。この関門海峡を使って船で兵・武器・兵糧を輸送しました。 火ノ山城の堀切(防御のための溝)。通常50m程度ですが、これは100m近くあり、毛利の築城規模を今に伝えています。

関連する人物や伝承のコラム

門司城の戦いにまつわる支城

門司城の戦いで、毛利氏が門司城を支援するために用いた二つの拠点「火ノ山城」と「鍋城」。

鍋城は、今の下関市役所付近にあり、海運の拠点として門司城へ物資を輸送していたと考えられていますが、現在では城があったと考えられる丘も削られて平地となってしまい、遺構らしきものはなにもありません。

もう一方の火ノ山城も、その後、明治時代に下関要塞が築かれたことから山頂部にはほとんど遺構らしきものが見られませんが、要塞の構造から城郭の往時の機能が想像されるほか、山の斜面には曲輪(くるわ:防御区画)や堀切(ほりきり:攻撃を遮断する溝)など、多くの遺構が見られました。なにより下関要塞の遺構が圧巻でしたので、城郭探訪とは外れ、九州ではなく本州・山口の史跡になりますが、門司城に関連するものとして写真でご紹介いたします。

明治時代、関門海峡は、東京湾、大阪湾に次ぐ日本三大要塞の1つとされていた為、このような施設が門司城のあった古城山や、火ノ山などに、多数、建設されていました。

飾られていた「戦艦大和砲弾」。瀬戸内海から引き揚げられ、下関市に寄贈された主砲用の46センチ徹甲弾。全長約2m。 側砲庫という大砲の弾薬などを収めておくための施設。敵の攻撃で被害を受けないよう、このように囲んで防御されています。
指令室と、上のコンクリート塊は観測所跡。このように半ば地中に設けることで、見つかりにくく、攻撃に晒されにくいのです。 兵舎(へいしゃ)という兵士たちの生活空間。こちらも半地下式です。部屋の中にも自由に出入りして見学できます。 連絡通路。兵舎の脇にあって、反対側の砲台と地下通路としてつながっています。

甲宗八幡宮の伝承

門司城の戦いで激しい合戦が行われた甲宗八幡宮(こうそうはちまんぐう)。
八幡宮は、この戦いで燃えてしまったそうですが、現在では再建されて境内には門司城を築いたとも言われる平知盛の墓と伝わるものがありました。

知盛は、武芸に秀でた武将と言われ、関門海峡で行われた壇ノ浦の戦いで、平家滅亡に伴って亡くなりました。
この時、知盛は、碇を担いで入水したとも、鎧を二着着用して入水したとも伝わります。

この神社に伝わる文書もいくつかあり、「足利尊氏寄進状」では、九州武士団の支援を得て京へ攻めのぼる尊氏が成功を祈願して、この神社に土地を与えたことが記されていたり、戦国時代初期には、大内氏がこの神社を厚く待遇していたことを記す物が多く残っているそうです。

甲宗八幡宮。創建は860年ですが、大友氏によって2度焼かれ、太平洋戦争でも空襲で焼失しているようです。 境内の一角にある平知盛のものと伝わる墓石。元々、筆立山の山腹にあったものが、昭和28年の大水害で流れて来たとか。

編集後記

門司城は、九州の玄関口にあたる位置にあります。
当然、その場所をめぐっては昔から争いが絶えなかったようです。

中村修身様のお話によると、山口県ではだいたい300程度の城跡が、福岡では1,000程もあり、それだけ争乱の渦中だったことを示しています。

また、毛利氏は城域1kmと、他の大名に比べると非常に城の規模が大きかったようです。そして、この門司城の戦いのように、自国では戦わず、相手の領土で戦をしたそうです。その理由の1つは、自国で合戦をすると田畑や町が被害を受け、経済的な打撃を受ける為です。

私も、今をさかのぼること30年前の学生時代に、ある歴史書籍の「門司城の戦い」にまつわる記事を熱心に読んだものですが、そこで使われていた地図の監修者が、ほかならぬこの日お会いした中村修身様でした。

取材にご協力いただいた各位へこの場を借りて御礼申し上げます。

門司区にある関門海峡ミュージアム(博物館)の展望所から門司城跡と火ノ山城跡(画像中央)を望む。門司は「焼きカレー」や「バナナの叩き売り」発祥の地としても有名。また、関門海峡両岸ではふぐ料理店も多くあります。
関門海峡ミュージアム。関門海峡にまつわる歴史や文化、自然に関する展示があり、大正の建築物や路面電車再現も。 門司港駅にある「和布刈神事」の像。旧暦元旦の早朝、わかめを刈り取って、神前に供え、新年を祝い、福を招く神事です。

アクセス

福岡県北九州市門司区「門司城跡」へのアクセス

電車を利用

  • ・小倉から門司港まで、JR鹿児島本線で約15分
  • ・門司港駅から門司城跡へは車なら約15分、徒歩で約40分

空港を利用

  • ・東京都「羽田空港」から北九州市「北九州空港」まで約2時間
  • ※関西の方は、伊丹空港から北九州空港への便が無いので、陸便がおすすめです。
    北九州空港から小倉まで、バスで約40分
    小倉から門司港まで、JR鹿児島本線で約15分
    門司港駅から門司城跡へは車なら約15分、徒歩で約40分

門司城跡は、山頂まで舗装歩道が続くので軽装での登山が可能です。

ご利用ガイド

詳しくはこちらから

WEB会員について

お買い物には「WEB会員登録」(無料)が必要となります。

送料について

同時に2点以上(セット商品含む)、定期コースは送料無料!

お届けについて

お好きな配達時間帯をお選びいただけます。

お支払いについて

後払い代引きなど、様々なお支払い方法が可能です。

  • 会社案内
  • 店舗のご案内
  • ご利用規約
  • 個人情報の取扱について
  • 個人情報保護方針
  • 「特定商取引に関する法律」に基づく表示
  • サイトマップ